日本劇場写真ーT
昭和8年〜20年(戦前)
昭和8年竣工開場当初の日劇
![]() 竣工当初の日劇 |
![]() 竣工開場当初の日劇 |
![]() 「日劇レビュ−史」8p |
![]() 竣工開場当初の日劇右手前は朝日新聞本社(手彩色写真) |
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![]() 1935年有楽町駅付近日劇前 http://kansha.livedoor.biz/archives/50723408.html |
右上の写真は多分10年頃撮影された日劇横を走る市営バス、後方の有楽町駅にはプラットホームが1本しかなく、高架線の下は床屋などの店になっている。
このバスも本物ではなく、フオ−ドと云われて居たもので、ラジエタ−の位置が高く、フレ−ム寸法が別物であるのが解る、此れは国内でフオ−ドの部品を作っていた日本フオ−ドの下請け業者が合同で作った国産フオ−ド、後に聖号の名称で発売されたあの車の名乗り出る前の姿ではなかったかと想像される。
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![]() B昭和13年3月(日劇レビュ−史より) |
昭和9年 NIPPON GEKIJO NEWS NO12-(03/22〜)
昭和9年3月22日発行、『日劇ニュース 第十二号(アメリカのレビュー団マーカス・ショー特集)』
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昭和10年の有楽町駅付近日劇前
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![]() 昭和初期、日劇竣工前後の絵はがき |
昭和11年 弟4回公演「6月のジャズとダンス」17景-(06/11〜30)
左下日劇の画像は垂れ幕からも分かる様にこの公演当時のもので完全冷房で涼しい劇場を売り物にし、入場料金も50銭均一として居ます(s38年「秋のおどり」プロより)。
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![]() 貴婦人と騎手(s38年「秋のおどり」プロより):年代不明 |
昭和13年 弟37回公演「ダンシング・タイムス」12景(03/11〜23) 戦前空前のヒットしたディアナ・ダービン主演の音楽映画「オ-ケストラの少女」上映に因んでの(戦後リバイバル上映時に観ています)日劇ショウ「ダンシング・タイム」でした。 この公演で日劇のステージ・ショウも弟37回を向かえ踊り子の量・質共に揃って来てダンシング・チームのラインダンスだけでも客が呼べる迄に成長したと評され、銀座のモダン・ボーイの間でも評判に成った様です。 右の日劇の写真は下記のwebで発見しましたがこの「ダンシン・グタイム」公演時の日劇で、公演看板の文字が戦前の為右からに成って居ます、手前に数寄屋橋が写っています。 |
![]() 弟37回公演「ダンシング・タイム」12景(03/11〜23) |
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映画「忠臣蔵」-右は忠臣蔵の垂れ幕をかざす日劇
弟1回日劇名曲オ−ケストラ「未完成交響楽」1景(03/31〜04/10) 出演:永来重明 装置:横川信幸 音楽:上野勝教 出演:NDT・日劇管弦楽団 映画「忠臣蔵」-右は忠臣蔵の垂れ幕をかざす日劇 同時上映映画:「忠臣蔵 地の巻」 http://www.jmdb.ne.jp/1938/bn001260.htm 製作=日活(京都撮影所) 1938.03.31 白黒 「忠臣蔵 天の巻」 http://www.jmdb.ne.jp/1938/bn001270.htm 製作=日活(京都撮影所) 1938.03.31 白黒 配役:浅野内匠頭 片岡千恵蔵 脇坂淡路守 嵐寛寿郎 大石内蔵之助 阪東妻三郎 |
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第43回公演「燦たり皇軍」1景・「スクラップ・ショウ」12景-(07/01〜14)
注):燦(サン=光輝く意)
燦たり東洋の誇![]() 当時のマッチラベル |
大東京絵葉書
昭和13年12月4日の記念スタンプが押された「日劇POST CARD」
まだ晴海通りにはビルが少なく左側には四丁目の服部ビルの時計台と日劇の裏には朝日新聞の社旗が右側には遠くに東劇、近くには阪急ビル等が車も少なく都電の姿も見られます。
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モガモボ時代 | |
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日本劇場全景&夜景(冷房涼しい劇場・五十銭均一)
![]() 日本劇場全景 |
![]() 夜景(冷房涼しい劇場・五十銭均一) |
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戦前 「東宝チェーン 劇場写真いり絵葉書」
日比谷映画劇場 日本劇場 有楽座 東京宝塚劇場 の写真が入った絵葉書です
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日劇洋食喫茶 右中は戦前製?と推測される東宝直営日本劇場内の洋食喫茶「日劇ランチ」のマッチラベルです。 この洋食喫茶が戦後は同じ場所で営業されて居た「喫茶らせん」の前身では無いかと推察されます?。 「喫茶らせん」は昭和35年以降日劇友の会の座談会が常時行われた思い出の場所です(昭和35年のぺ−ジ参照)。 当時は此処で昼時にカレ―ライス等を食べて一日三回の「大おどり」を一日中観て居た事が懐かしく思いだされました、一般の日劇入場料金¥250の時代カレ―ライスは¥80〜100位ではなかったか?。 日劇地下大食堂 右端は日劇地下大食堂のマッチラッルです、地下に映画館が出来る戦前には日劇地下にも大衆的な大食堂が存在して居た様子です。 |
![]() 洋食喫茶「日劇ランチ」のマッチラッル |
![]() 日劇地下大食堂のマッチラッル |
昭和18年3月10日 陸軍記念日に「撃ちてし止まむ」の大看板を掲
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昭和18年の3月10日は開戦2度目の陸軍記念日でしたが、この日を期して、国民の戦意高揚のための国民運動の一環として、「撃ちてし止まん」のスローガンが、各地で国民の目を引くようになりました。
先ず東京では巨大な写真のパネルが、有楽町の日劇(昭和57年年取り壊されました)の正面の壁面一杯に取り付けられました。
その図柄は、鉄兜をかぶり、防毒面を首にかけた兵士が何事かを怒号しながら、手に持った手りゅう弾を敵陣に向かって投げつけ、今まさに突撃の体勢に移ろうとしている、緊迫した様子になっています。 この巨大なパネルは、6X6判の写真の原板をまず、6尺四方に引き伸ばし、それを35等分して、その一つ一つを更にタテ9尺、ヨコ6尺に引き伸ばして、百畳敷きの大きさにしたもので、完成までに約一ヶ月かかったのだそうです。
「撃ちてしやまむ」の語句の出展は古事記のなかにある、神武天皇の長髄彦(ながすねひこ)討伐の時の歌・・・口ひひく 我は忘れじ 撃ちてし止まむ・・から採ったものです。
しかし、「撃ちてし止まむ」や「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などと、政府の国民の士気を鼓舞する掛け声とは裏腹に、日本軍は昭和17年のミッドウエイ海戦で大敗し、さらにソロモン沖海戦において徹底的な大打撃を受けて、戦局は開戦時の快進撃から一転して、日本の「負け戦へ」と転換していきました。
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上右の写真は左と同じショットの物ですがより広範囲が写され群集の多さが良く判る写真です(朝日新聞社提供)。
又上中の写真は反対側からのショットで次の説明がより
総力戦の体制をつくるためには、文化に対する統制を強め、戦争協力に動員することも欠かすことのできないことでした。とりわけ、国民に大きな影響を与えるマスメディアや、生活のなかに深く根ざした伝統文化などを統制し、動員することが重要でした。
1940年12月、内閣情報局を設立し、これによって、すべての分野にわたって体系的で、統一的な統制と動員の政策を実施しようとしましたが、必ずしもうまくはいきませんでした。
1943年3月10日、東京麹町区数寄屋橋の日劇外壁に掲げられた「撃ちてし止まむ」の大パネル。写真撮影/影山光洋