日本劇場写真ーU

昭和20年〜56年(戦後)


昭和20年敗戦直後の日劇と朝日新聞社

   


昭和21年「スイングホテル」-(09/18〜10/07)
 この公演で特筆すべきは詳細は不明ですが6月の公演に引きつ好き続きSKDとTDAが競演して居る事です、又右下の写真は戦後の日劇での労働争議の様子を伝える貴重な映像です。
日劇 NO9 SEPT(9月)より



◎朝日新聞筋向かい日劇のバルコニー。日劇バンド、幕間演奏。

(○「日劇労組。人民放送局開設」)
 朝日新聞に向かって「朝日よ放送に続け」「毎日よ立て」とスピーカー叫ぶ。


昭和22年
1947年5月20日FEAF(米極東空軍)横田基地の第91戦略偵察航空団のRB-29偵察機によって撮影された数寄屋橋から銀座4丁目に至る町並みが鮮明に写されたオリジナルの偵察写真です。縦18cm、横22.5cmの大判写真です。当時の日劇・朝日新聞・ピカデリー・東芝・泰明小学校・和光ビル・銀座三越等を知る貴重な資料です。


日劇・朝日新聞・ピカデリー

東芝・泰明小学校


昭和26年の日劇映像

GINZA PHOTOGRAMM 2006〜瞬間(とき)を銀座から

 平成18年9月11日銀座街頭で右の日劇写真を発見
この街頭写真展示は平成18年9月9日から始まった模様ですが懐かしい日劇の写真に思わず足止めされ見入って仕舞い帰宅後早速webを検索しました。

  NO38 Tokyo. Ginza district. 1951. 東京 銀座 1951年
  Werner Bischof ワーナー・ビショフ

       http://www.ginza.jp/ga-gf2006/list.html

 日劇の屋上のネオン及び東芝の広告もまだ設置されず、手前の道路には自転車に引かれた人力車や大きな荷物を自転車で運ぶ姿、台上で交通整理をする警官、古い数奇屋橋交番、車もまだ少なく路上には都電の架線が見られ手前の人物の姿にも当時が偲ばれます。

 この写真の展示場所は銀座通リ三越前(紳士洋品店モトキ前)の歩道でこの他多数の懐かしい東京の写真が銀座通リ各所に展示されていました。

 昭和26年"yachan"は大学1年生この春上京したばかりで一人で銀座に出掛け日劇を初めて観たのは二年後の昭和28年の春からでその時の日劇周辺はこの写真と余り変わって居なかったと思います。

数奇屋橋交差点より日劇その手前朝日新聞本社

昭和27年11月の日劇

 
1952年の日劇。日劇ミュージックホールの看板が見えるので撮影年を特定出来る。『工事画報 創業六十年記念』(1952年11月)


昭和28〜29年の日劇映像-映画「君の名」より

1953.09.15 君の名は  松竹大船 大庭秀雄
1953.12.01 君の名は 第二部  松竹大船 大庭秀雄
1954.04.27 君の名は 第三部  松竹大船 大庭秀雄


昭和30年の日劇の映像 

 下の写真の題名は「さよなら」EF50(昭和30年日劇前)と成って居ますが 「歌う三橋美智也」とたれ幕が掲げられて居ますので多分この昭和31年に日劇初出演のこの時期に撮影されたと思われます(昭和30年には三橋美智也ショ−は公演されて居ない為)。
 このクラシカルな輸入電気機関車が30年代まで走っていたのですね!


「日劇レビュ−史」公演評(218p)

絵葉書・昭和時代(東京名所)・日本劇場と朝日新聞社 
 いすずヒルマンの看板からこの当時の絵葉書と思われます。
   いすゞ・ヒルマンミンクス - Wikipedia


いすず トラック バス ヒルマン の看板

昭和33年2月 第1回「日劇ウエスタン・カ-ニバル」12景-(02/08〜14)


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ウエスタン・カ-ニバル公演の看板
昭和33年2月の日劇?

(注:昭和33年2月にはまだ王冠のネオンは無かった)

ウエスタン・カ-ニバルフィナ−レ

「昭和33年6月14日撮影の日劇映像」
 日劇屋上にはまだあの有名な王冠のネオンが在りません、王冠ネオンは此の年の年末の映像には見られるので此の写真撮影直後に取り付け工事が行われた様です、又朝日新聞社前の工事は首都高速の工事と思われます。

 数寄屋橋は、慶長11年(1606)から江戸前島の背筋を掘削して、江戸城
外堀を設けた時に架けられた。それから350年、自動車専用道路建設の
ため外堀が埋め立てられ、昭和3年に架けられた石の橋も壊された。..

 写真の国電(現JR)ガード越しに見えるビルは、関東大震災後に建った
電気会館。ガードの手前に、昭和37年、東海道新幹線が増設された。..
さらに手前の丸い建物が有名な日劇。昭和8年12月開場以来、全国の人々
に愛されたが、昭和59年3月、改築のため取り壊された。戦争末期の風船
爆弾製造工場転用、戦後の宝くじ抽選会など、さまざまなエピソードも生
んだが…。..

 その右の、軍艦の艦橋を思わせるビルは、昭和2年に建てられた朝日新
聞社。空の黒点は、新聞社の伝書鳩である。通信手段の少なかった昭
和30年代では、鳩の帰巣本能を利用して、離島やへき地からの情報は、
鳩の胸に結び付けられた筒に託した。

    (昭和33年6月14日撮影).
.

消えた街角:富岡畦草・記録の目シリーズより転載 昭和33年「数寄屋橋交差点辺り」

昭和33年「日劇秋のおどり」&映画{裸の大将の垂れ幕を掲げた日劇

1958.09.30 大学の人気者  東宝 松林宗恵
1958.10.07 若い娘たち  東宝 岡本喜八
1958.10.14 大怪獣バラン  東宝 本多猪四郎
1958.10.21 眠狂四郎無頼控 魔剣地獄  東宝 川西正純
1958.10.28 裸の大将  東宝 堀川弘通
1958.11.04 恐喝  東京映画 佐伯幸三
1958.11.11 青春白書 大人には分らない  東宝 須川栄三

「昭和33年年末の日劇の映像」
 下の二枚の写真はweb上の「昭和チック秘宝館」のHPに掲載されて居た写真を転載させて頂いたものです。
左の日劇の写真には東宝映画 隠し砦の三悪人(
1958/12/28公開)の垂れ幕が揚げられて居ますので昭和33年の師走です、この時期日劇で公演されて居たショ−は「NDTビック・パレ-ド」です、この映画を観て居ますので多分年末休みに「NDTビック・パレ-ド」に併映されて居たのを観たのではないかと思います。

 又右の写真は数寄屋橋方面から朝日新聞本社と日劇を撮影されて居ますが当時を懐かしく思い出す映像です、日劇の屋上には上記6月に撮影された時期には無かった東芝の王冠のネオンサインが取り付けられて居るのが判ります、まだ数寄屋橋も健在で上部の高速は無く下には外堀が在り晴海道路には都電が走って居ま


東宝映画 隠し砦の三悪人(1958/12/28公開)の看板を揚げた日劇

数寄屋橋方面から朝日新聞本社と日劇


昭和34「コロンビア歌謡大行進」8景
-(02/21〜27)

依然として戦後のカラー写真(コダクローム)の収集を細々と続けています。上の写真は1959年頃の旧日劇。今の有楽町マリオンのところにありました。手前側の道路に路面電車の線路が見えます。
 サンフランシスコ講和条約から7年ほどが経ち、日本が本格的な成長期に入る時期です。もちろん僕は実風景としては記憶にありませんが。

 戦後のカラー写真は珍しいことは珍しいのですが、皆無というわけではありません。備忘録代わりに類書をリストアップしておきます。行きがかり上、この6冊は全部集めました。


E昭和35年?(30年代前期)


昭和34年日劇友の会」誕生!-(10/16)
 日劇友の会」発会式はこの日劇友の会」会報 NO:1を入手する前迄は此の年の年末に宝塚劇場の地下食堂で開催された年末パ−ティ-(本ペ−ジの最下段)が発会式と思い込で記載して居りましたので此処に訂正致します('10/08/25)。

 
日劇友の会」会報 NO:1 表紙(昭和34年10月28日発行)
日劇友の会」会報 NO1 目次
 表紙:日劇の夜景(昨年末の「日劇ビックパレ−ド開催時)

 日劇ステ−ジショウ思い出の舞台写真・・・・・・・・・01〜03p
 日劇ダンシングチ−ムについて・・・・・・・・・・・・・・・04〜05p
      NDT誕生から友の会の誕生迄
      日劇ダンシングチ−ム連名
      オ−ストラリア公演

 「日劇友の会」の誕生!(発会式)・・・・・・・・・・06~07p
 日時:昭和34年10月16日 秋のおどり第1回公演終了後
  場所:日劇5階ミュージックホ―ル

 編集室・日劇クイズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・08p





日劇友の会」会報 NO:1の全内容は別ペ−ジに公開致します。
 (会員のみに公開)
 
日劇友の会」発会式 日劇5階ミュージックホ―ルに於いて(10月26日)

この時代の日劇の映像 首都高速開通

昭和33年12月「NDTビックパレ−ド」上演時の日劇-昭和34「日劇夏のおどり」パンプより 
 
昭和34年?「日劇春のおどり」上演時の日劇-絵葉書
 



上記写真の原画か?

昭和34年6月10日ビルの谷間に高速道路(新橋から八重洲6丁目まで1.2km首都高速開通)
 


昭和35年6月東京地方労働組合 有楽町日劇前 都電 路面電車 テレカ


昭和36年3月の日劇の映像
 右下日劇の映像は昭和36年3月公演 日劇ミュージックホール NO61-3 満九周年記念ショウ 靴下止めが鳴る夜は・・・「恋愛実務知識」のパンフレットに掲載されて居た日劇の姿です。


日劇全景

NMH入り口と看板

昭和36年6月「ピ−ナッツ。ホリディ」8景-(06/01〜08)

   


昭和37年10月日劇絵葉書
 日劇映画看板に「決闘コマンチ砦」(http://movie.ontvjapan.com/RatingUserList/movie/7123 の日本公開は此の年の10月です)と有ります、日劇が一番輝いて居た時代の映像です。



昭和38年1月「無責任だよ ザ・ピ−ナッツ」12景-(01/06〜13)


「無責任だよ ザ・ピ−ナッツ」の看板を掲げる日劇 

昭和38年?秋(日劇レビュ−史より) 


航空写真 1963年(昭和38年)頃


銀座、日劇横を通る新幹線 絵葉書昭和30年代の絵葉書
 右の写真にはこの公演「チエミ大いに歌う」の看板を掲げた日劇が
新幹線が営業運転を始めたのは1964年昭和39年)10月1日なのでこの時期は試運転されて居たものと思われます。

昭和39年日劇のスナップ写真
 映画「マイフェア・レディ」昭和39年年12月初公開

       


昭和42年9月 「水前寺清子ショ−」10景-(09/09〜15)

「水前寺清子ショ−」の看板のある日劇
 この写真はこの年9月9日より一週間公演された「水前寺清子ショ-」の上演期間中に銀座方面より撮影されたもので日劇正面には公演の看板が掲げられ、手前には朝日新聞社、背後には、初代0系の東海道新幹線が走り、日劇前の晴海道路にはまだ都電の姿が見られます。

 右のの映像は「東京懐かしの昭和30年代散歩地図」実業之日本社より転写しました。

 日劇前にはマイカ-時代を向かえ自家用車の展示されているのが見受けられます。

同時上映映画
 1967.09.02 喜劇 駅前探検  東京映画 井上和男
 67.09.02 てなもんや幽霊道中
 東宝=宝塚映画=渡辺プロ 松林宗恵

昭和42年の日本劇場
 
昭和42年秋


昭和45年9月「西郷輝彦のすべて」3部
-(09/09〜15)
 「秋のおどり」前の歌謡ショ−でNDTは出演していますが活躍は無かった様子です。
 右下の日劇の写真はweb上の東芝トップページHP昭和56年の
なつかしの電化製品の冷蔵庫の項目にその時代の東京・有楽町の風景として日劇が取り壊される情報で掲載されて居たものですが、掲げられた公演の看板からこの昭和45年の西郷輝彦ショウ−当時のものです。

日劇の写真に就いては昭和56年のぺ−ジに年代順に収録して居ますので御覧下さい。


東京・有楽町の日本劇場(日劇)
http://care.toshiba.co.jp/care/benri/kaden/reizou/reizou04.htm

『歌え!踊れ!真夏のあらし 西郷輝彦のすべて』(日本劇場の公演パンプ、1970年)→14ページ
 


s47


昭和51年12月日劇写真集
  昭和51年12月5日発行 定価4000円。白帝社発行

   

昭和55年9月
下の二枚の写真はNHK製作?のDVD 東京風景1971−1980より


'80年封切り「ノストラムダスの大予言」の広告を掲げる日劇

昭和55年7月日劇とアサヒ新聞社
 
航空写真 1980年(昭和55年)頃

数寄屋橋地下鉄入り口より日劇を望む

映画:「地震列島」-(9月?)


上の写真は左下の日劇映像と同時期に撮影方向の異なる映像

http://cinema.intercritique.com/movie.cgi?mid=5730
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19146/index.html

雑誌:報道写真より


昭和55年9〜10月当時の日劇
 
昭和55年9〜10月当時の日劇内部

昭和56年9月「サヨナラ日劇ウエスタン・カ−二バル・俺たちは走り続けている!」-(01/22〜25)

     

「サヨナラ日劇-FESTIVAL-あゝ栄光の半世紀」-(1/28〜2/15)


「サヨナラ日劇-FESTIVAL-あゝ栄光の半世紀」の日劇
http://megaforce.org/v_nichi.htm
 
H昭和56年「サヨナラ日劇」

I昭和56年日劇の航空写真 



現在の有楽町マリオン

   

日本劇場の版画とNDT OB有志からの寄稿(33期の大石 誠氏より提供頂きました)
 日劇版画は昭和30年代まだ外堀にはあの有名なラジオドラマ「君の名は」で知られる数奇屋橋が架かり、晴海通りには都電が走り、その上の高速道路も新幹線も無く、テレビは白黒の時代、東京オリンピック開催前の日劇の姿です、然しこの時代日劇と共にNDTが最も輝いて居た時代でした、右側の建物は当時の朝日新聞本社です、現在はマリオン(西武・阪急デパ−ト、東宝・松竹の映画館)の場所です(昭和56年のペ−ジ参照)。

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